4)フルコンタクト空手の誕生と台頭
戦後
武道禁止令と活動再開
連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって、文部省から出された「柔道、剣道等の武道を禁止する通達」のため、空手の活動は一時停滞しました。しかし、この通達には「空手」の文字が含まれていなかったため、空手は禁止されていないとの文部省解釈を引き出して、空手は他武道よりも、早期に活動を再開することができました。
全国組織と競技空手の誕生
空手の競技化(試合化)は戦前から試みられていましたが、試合化そのものを否定する考えもあり、組織的な競技化は実現していませんでした。しかし1954年(昭和29年)韓武舘(現在の全日本空手道連盟錬武会)が第1回全国空手道選手権大会を防具付きルールで実施すると、1950年(昭和25年)に結成された全日本学生空手道連盟により1957年(昭和37年)に全日本学生空手道連盟主催で伝統派(寸止め)ルールによる「第1回全日本学生空手道選手権大会」が開催。同年には、日本空手協会主催により「全国空手道選手権大会」が開催されました。
1962年(昭和37年)には、山田辰雄が後楽園ホールで、グローブを着用した「第一回空手競技会」を開催して、のちのフルコンタクト空手に先駆けて直接打撃制試合を行いました。
1964年(昭和39年)には、全日本空手道連盟(全空連)が結成された。1969年(昭和44年)9月、全空連主催による伝統派(寸止め)ルールの「第1回全日本空手道選手権大会」が日本武道館で開催されました。
流派の乱立と空手の多様化
このように、空手の全国化・組織化は着実に進んでいきました。しかし、その一方で、もともと流派、会派などが存在しなかったと言われていた空手界でしたが、大日本武徳会を機に流派、会派など増え始めていきました。1948年(昭和23年)、東京では船越義珍の門弟たちによって最大流派日本空手協会(松濤館流)が結成され、1957年(昭和32年)4月10日、日本空手協会を社団法人として文部省が認可しました。しかし1958年(昭和33年)には早くも空手の試合化を否定する廣西元信たちが戦前からの松濤会を復活させ、独立していきました。分裂、独立については、ほかの流派も事情は似たり寄ったりでした。遠山寛賢のように、無流派主義を標榜する空手家もいましたが、多数にはなりませんでした。
従来の伝統派空手に疑問を抱き、独自の理論で直接打撃制の空手試合を模索していた極真空手創始者の大山倍達(おおやま
ますたつ)によって、防具を一切着用しない、素手、素足の直接打撃制(足技以外の顔面攻撃禁止制)による第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が1966年9月代々木の東京体育館で開催され、空手界に一大旋風を巻き起こしました。
大山倍達は1938年(昭和13年)9月に空手道を松濤館流の船越義珍に師事、その後松濤館流と剛柔流を主に学びましだが、その組手ルールは「掴み」、「引っ掛け技」が禁じられていたため、伝統派空手の血を感じることはありませんでした。基本的には掴み禁止(後に絶対禁止)、「顔面への手技を禁じた以外は素手・素面でどこにでも直接打撃を行なってよい」という、当時としては非常に過激なルールで行なわれました。この極真の試合は漫画・映画の題材ともなり、また格闘技色が強かったため、空手の大会としては初めて、興行としても成功。空手のワクを越えて、格闘技界を代表するほどの存在となりました。
●参考文献・サイト
富名腰義珍『琉球拳法 唐手』
富名腰義珍『錬胆護身 唐手術』
船越義珍『空手道一路』
本部朝基『日本傳流兵法本部拳法』
岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』
小沼保『本部朝基正伝 琉球拳法空手術達人(増補)』
摩文仁賢和・仲宗根源和『空手道入門―攻防拳法』
仲宗根源和編『空手道大観』
仲宗根源和編『空手研究』
三木二三郎・高田瑞穂『拳法概説』
金城裕編『月刊空手道』
『空手道 保存版』
長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』
儀間真謹・藤原稜三『対談 近代空手道の歴史を語る』
藤原稜三『格闘技の歴史』
外間哲弘『空手道歴史年表』
『沖縄大百科事典』
Wikipedia
フルコンタクトKARATE別冊・格闘王NO.18 『THE KARATEDO入門〜百花繚乱の空手界を整理整頓〜』
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