40代からの空手道 極真空手の巻
 
 
 
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 空手の発祥・歴史

2)琉球王国時代

唐手佐久川の以前と以後

琉球の歴史において、唐手の文字が初めて現れるのは、唐手佐久川(トゥーディーさくかわ)とあだ名された、佐久川寛賀(1782年 - 1838年)においてです。佐久川は28歳(1806年)の時、当時の清へ留学し、北京で中国武術を学んだとされています。この佐久川が沖縄本島に持ち帰った中国武術に、以前からあった沖縄固有の武術「手(ティー)」が融合してできたものが、今日の空手の源流である唐手であったと考えられています。

佐久川以降、「手」は唐手に吸収・同化されながら、徐々に衰退していった。一般に空手の歴史を語る際、この唐手と「手」の区別が曖昧です。それゆえ、狭義の意味での唐手の歴史は佐久川に始まります(さらに厳密に言えば、佐久川はあくまで「トゥーディー」=中国武術の使い手であり、「日本の武技の手・空手」の起源を考えるならば、佐久川の弟子の松村宗棍以降になる)が、「手」も含めた沖縄の格闘技全般の唐手の歴史は、もちろんそれ以前にさかのぼります。以下、広義の意味での唐手(空手)の歴史について叙述します。

琉球の沖縄本島で空手が発展した理由として、従来言及されてきたのが、二度にわたって実施された禁武政策であす。一度目は尚真王(在位1476年 - 1526年)の時代に実施され、このとき、国中の武器が集められて王府で厳重に管理されることになりました。二度目は慶長14年(1609年)の薩摩藩による琉球侵攻後に実施された禁武政策です。二度の禁武政策を通じて、武器を取り上げられた人々が、薩摩藩に対抗するために空手を発展させたとする説が、従来、歴史的事実であるかのように繰り返し言及されてきました。

しかし、禁武政策と空手発展の因果関係については、近年、これを疑問視する研究者が少なくありません。特に薩摩藩の実施した禁武政策(1613年の琉球王府宛通達)は、帯刀など武器の携帯を禁じただけで、その所持まで禁じたものではなく、比較的緩やかな規制であったことが判明しています。

この通達は「一、鉄砲の所持禁止。二、王子・三司官・士族の個人所有武器の保有は認める。三、武器類の修理は在番奉行所を通して薩摩にて行う事。四、刀剣類は在番奉行所に届け出て認可を受ける事」という内容であり、武器の所持(鉄砲を除く)やその稽古まで禁じるものではありませんでした。実際、薩摩への服属後も、琉球の剣術、槍術、弓術などの達人の名は何人も知られています。また、素手で鉄砲や刀などの武器に対抗するという発想そのものが非現実的であり、このような動機に基づいて琉球士族が空手の鍛錬に励んだとは考えられない、との指摘もあります。それゆえ、禁武政策による空手発展説を「全く根拠のない巷間の浮説」(藤原稜三)と一刀両断する研究者もいます。

手(ティー)の時代

古くは16世紀、命を狙われた京阿波根実基(きょうあはごんじっき)が空手(くうしゅ)にて相手の股間を蹴り上げたとの記述が正史『球陽』にあり、これは唐手以前の素手格闘術であったと考えられていますが、その実態は判然としません。また、17世紀の武術家の名前が何人か伝えられていますが、彼らがいかなる格闘技をしていたのか、その実態は明らかではありません。明確に、手(ティー)の使い手として、多くの武人の名が挙がるのは18世紀に入ってからです。西平親方、具志川親方、僧侶通信、渡嘉敷親雲上、蔡世昌、真壁朝顕などの名が知られています。

また、土佐藩の儒学者・戸部良煕が、土佐に漂着した琉球士族より聴取して記した『大島筆記』(1776年)の中に、先年来琉した公相君が組合術という名の武術を披露したとの記述があることが知られています。この公相君とは、1756年に訪れた冊封使節の中の侍従武官だったのでないかと見られており、空手の起源をこの公相君の来琉に求める説もありますが、組合術とは空手のような打撃技ではなく、一種の柔術だったのではないかとの見解もあり、推測の域を出ていません。

唐手(トゥーディー)の時代

19世紀になると、唐手という名称が使われ出しました。しかし、唐手と「手」の相違は判然としません。明治初頭の頃まで、唐手以前の「手」は特に沖縄手(おきなわて、ウチナーディー)と呼ばれ、唐手とは区別されていたとされますが、両者の間にどのような相違があったのかは不明です。19世紀以降の唐手の使い手としては、首里では佐久川寛賀とその弟子の松村宗棍、盛島親方、油屋山城、泊では宇久嘉隆、照屋規箴、那覇では湖城以正、長浜筑登之親雲上などです。

この中でも、特に松村宗棍は「琉球の宮本武蔵」とも言われ、琉球王国時代の最も偉大な空手家と言われています。琉球国王の御側守役(侍従武官)の職にあり、国王の武術指南役もつとめたと伝えられています。

また、この頃から、薩摩を経由して伝来した日本武術も、唐手の発展に影響を及ぼしたとされます。琉球王国末期になると、琉球士族の一部には、薩摩の在番役人から示現流剣術やその分派の剣術を修業する者もあり、松村宗棍のように、実際に薩摩に渡って示現流を修業してくる者もいました。空手の「巻藁突き」は、示現流の「立木打ち」からヒントを得たとも言われています。また、空手の一撃必殺を追求する理念にも、示現流の影響があるという説もあります。

さて、空手に流派が登場するのは、空手が本土に伝えられた大正末期以降です。それ以前は、空手の盛んだった地域名から、単に首里手、泊手、那覇手の三つに、大まかに分類されていたにすぎません。もっとも首里士族の中には首里手以外に、泊手や那覇手も同時に習っていた例もあり、この分類もあまり厳密に受け取るべきではないと言えるでしょう。

首里手(しゅりて)
首里手は棒術と拳法の名人・松村宗棍(まつむら・そうこん)などを生み出した系統であり、中国北派拳術の影響を濃く受けているといわれています。松村宗棍は薩摩の示現流も学び、「空手の巻藁突きは、薩摩示現流の“立ち木打ち”をヒントに、松村が始めた」とも伝えられます。この松村宗棍をはじめ、首里手からは後に船腰義珍(ふなこし・ぎちん/松涛館流創始者)、さらにその弟子に大塚博紀(和道流創始者)が出たため、後の四大流派のうちの二流派が、この首里手から発生したということになります。

那覇手(なはて)
那覇には福州からの帰化人が多く、また、那覇の港は貿易港として栄えており、多くの中国人が行き来していたため、武術の交流も盛んに行なわれていたようです。  那覇手は中国南派拳法の影響を強く受けて発展しました。宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん)が所有し、剛柔流に強く影響した「武備誌」はまさに南派拳法の教本であり、その強い関係を表しています。 那覇手からは上地流や劉衛流などが出ましたが、中でも最大派閥として発展したのは、宮城長順によって創始された剛柔流です。

泊手(とまりて)
一説によると、山東省からの漂着民が伝えたと言われていますが、確証はなく、首里手や那覇手に比べると歴史背景はかなりあいまいです。技術的には「チャタンヤラのクーシャンクー」などの型を残していますが、代表的な名人である松茂良興作でさえ、首里手と並行して学んでいたりと、泊手のみの伝承者は少なく、事実、本土空手が広まった時に純粋な泊手が広まることはありませんでした。

廃藩置県後

唐手(からて)の公開(明治時代)

元来、琉球士族の間で密かに伝えられてきた唐手ですが、明治12年(1879年)、琉球処分により琉球王国が滅亡すると、唐手も失伝の危機を迎えました。唐手の担い手であった琉球士族は、一部の有禄士族を除いて瞬く間に没落し、唐手の修練どころではなくなりました。不平士族の中には清国へ逃れ(脱清)、独立運動を展開する者もいました。開化党(革新派)と頑固党(保守派)が激しく対立して、士族階層は動揺しました。

このような危機的状況から唐手を救ったのが、糸洲安恒です。糸洲の尽力によって、唐手はまず明治34年(1901年)に首里尋常小学校で、明治38年(1905年)には沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)および沖縄県師範学校の体育科に採用されました。その際、読み方も「トゥーディー」から「からて」に改められました。唐手は糸洲によって一般に公開され、また武術から体育的性格へと変化することによって、生き延びました。糸洲の改革の情熱は、型の創作や改良にも及びました。生徒たちが学習しやすいようにとピンアン(平安)の型を新たに創作し、既存の型からは急所攻撃や関節折りなど危険な技が取り除かれました。

このような動きとは別に、中国へ渡った沖縄県人の中には、現地で唐手道場を開いたり、また現地で中国拳法を習得して、これを持ち帰る者もいました。湖城以正、東恩納寛量、上地完文などがそうです。もっとも、日中国交回復後、日本から何度も現地へ調査団が派遣されたが源流武術が特定できず、また中国武術についての書籍や動画が出回るにつれ、彼らが伝えた武術と中国武術とはあまり似ていないという事実が知られるようになると、近年では研究者の間で彼らの伝系を疑問視する声も出てきています。


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